◆研究内容

強相関電子系における非線形光学応答と光誘起相転移に関する研究


 岡本 博氏は、強相関電子系物質が、巨大な三次の非線形光学効果と超高速の光誘起相転移を示すことを発見し、その物理的機構を解明した。遷移金属酸化物から遷移金属錯体、更には有機電荷移動錯体にわたる幅広い物質群を対象とし、光機能性材料としての強相関電子系の高いポテンシャルを世界に先駆けて実証し、国内外における当該学問分野の構築、ならびに発展に多大な貢献をした。
 
 これまで光機能性材料の主役であったのは、V-V族化合物半導体の量子構造や共役系高分子などの低次元構造を有する半導体材料である。これらの物質は、バンド絶縁体と呼ばれる電子構造をもっており、電子で満たされた価電子帯と電子のいない伝導帯の間にエネルギーギャップが存在する。その光機能性は、電流注入や光励起などによって作られる少数の電荷キャリアによって担われている。
 
 一方、遷移金属酸化物を中心とするd電子系物質には、相互作用によって互いの運動に強い相関をもつ電子集団(量子結晶)が存在することが知られており、強相関(電子)系と呼ばれている。典型的な状態は、電子が各原子の軌道に一つずつ存在する場合であるが、電子はクーロン反発によって隣のサイトに動けず各原子上に局在し絶縁体となる。このような系は、そのエネルギーギャップの要因がバンド絶縁体とは本質的に異なり、モット絶縁体と呼ばれている。強相関系の代表的な物理現象として銅酸化物の高温超伝導やマンガン酸化物の超巨大磁気抵抗が知られているが、これらは、モット絶縁体であるペロブスカイト型酸化物にキャリアドーピングを行うことによって実現される。高温超伝導や超巨大磁気抵抗の発見を契機として強相関系の伝導性や磁性の研究が進んだが、強相関系を光機能性材料として積極的に利用しようという視点の研究は皆無であった。岡本氏は、強相関系の光機能性材料としてのポテンシャルにいち早く注目し、非線形分光及びフェムト秒分光をさまざまな強相関系物質に適用した。その結果、通常の半導体材料(バンド絶縁体)では生じない巨大な三次の非線形光学効果と超高速の光誘起相転移現象を見いだした。
 
 三次の非線形光学効果とは、物質に光を照射したとき、物質中に光の電場の三乗に比例する分極が生じる現象である。この非線形光学効果は、光だけで動作する演算素子を実現するための基本原理となる物理的性質である。電子回路のトランジスタを、光だけで動作する光演算素子に置き換えることができれば、高速なスイッチング動作が可能となり、超高速大容量光通信が現実のものとなる可能性がある。光演算素子を実現するためには、大きな三次の非線形光学効果を示す材料の開拓が不可欠である。
 
 岡本氏は、新しい三次非線形光学材料の候補として、一次元構造をもつ典型的なモット絶縁体である銅酸化物、及び、ハロゲン架橋ニッケル錯体に注目した。三次非線形光学効果の性能指数は、三次非線形感受率χ(3)で表される。岡本氏は、電場変調分光法と呼ばれる手法を用いてモット絶縁体である一次元銅酸化物及びニッケル錯体のχ(3)が10-5〜10-8esuの大きさであり、従来のバンド絶縁体のχ(3)の値10-8〜10-12esuに比べ桁違いに大きいことを見いだした。また、広いエネルギー領域にわたるχ(3)スペクトルを定量的に評価し、結果を解析することによって、モット絶縁体では、電子相関に起因する電子秩序によって奇と偶の対称性をもつ電荷移動励起状態が縮退し、2つの励起状態間の遷移双極子モーメントが増大することによってχ(3)が増強されることを示した。さらに岡本氏は、非線形光学効果の次元性との相関を解明するため、一次元及び二次元銅酸化物のエピタキシャル薄膜において、第三高調波発生法を用いてχ(3)スペクトルを系統的に測定した。その結果、χ(3)の増強が、一次元系において特に顕著であること、及び、一次元系における遷移双極子モーメントの増大は、強相関一次元系に特有のスピン−電荷分離の性質に関係していることを明らかにした。最近では、モット絶縁体のなかで最も大きなχ(3)を有する臭素架橋ニッケル錯体の良質な光学薄膜の作製に成功し、テラヘルツ領域の光スイッチング動作を実証するとともに、デバイスモデルの構築を視野に入れた物質・材料開発を展開している。
 
 岡本氏のもう1つの業績である光誘起相転移とは、光照射によって物質の電子構造や物性ががらりと変化する現象である。岡本氏は、強相関系が電子集団の量子結晶であることに注目し、その光応答がきわめて高速に起こることを実証した。具体的には、ハロゲン架橋ニッケル錯体やマンガン酸化物等のモット絶縁体において、100フェムト秒のレーザーパルスで光励起を行うと、電子秩序の融解を通して瞬時に絶縁体−金属転移が生じ、光誘起金属状態が数ピコ秒で元の絶縁体状態に回復することを見いだした。電子が局在すると、スピンや軌道といった新しい自由度が現れる。これらのスピンや軌道の自由度もしばしば秩序化するが、岡本氏は、それらの秩序も光によって制御できることを示した。具体的には、強磁性体やフェリ磁性体である遷移金属酸化物及びハロゲン化物にフェムト秒パルスを照射すると、10ピコ秒の時間スケールで磁化の減少や磁化の増加が生じること、また、軌道秩序を有するバナジウム酸化物にフェムト秒パルスを照射すると、数ピコ秒で軌道秩序が融解することを見いだした。これらの現象は、テラヘルツ領域の新しいスイッチングの動作原理として有望である。
 
 岡本氏の光誘起相転移の研究は、有機物質にも展開されている。対象とした物質は、電子供与性をもつ分子と電子受容性をもつ分子からなる電荷移動錯体と呼ばれる分子化合物である。この種の物質系では、分子間のπ軌道の重なりは小さいため、相対的に電子相関の効果が重要となり、広義の強相関系と位置付けられる。岡本氏は、TTF-CAと呼ばれる電荷移動錯体において、その中性−イオン性転移のダイナミクスを詳細に調べた。分子価数の変化と分子変位の変化をエネルギー及び時間領域で分離して検出することによって光誘起相転移の機構を解明した。また、光誘起相転移に伴って生じるコヒーレントな分子価数の振動を、複数のパルス列によって増幅し、相転移ダイナミクスを制御することにも成功した。これは、光誘起相転移効率の新しい制御法として注目されている。その他、ET-F2TCNQにおける光誘起絶縁体−金属転移、K-TCNQにおける光誘起スピンパイエルス相融解など、多数の新規超高速光誘起相転移現象を見いだし、この分野を先導してきた。
 
 岡本氏のモット絶縁体における巨大な三次の非線形光学効果の発見は、2000年にNature誌に掲載された。この報告が火付け役となって、それまで皆無であった"強相関電子系の非線形光学応答"に関する実験・理論両面からの研究報告が相次ぎ、国内外の国際会議、ワークショップで活発に議論されるようになった。一方、光誘起相転移に関しては、近年国内外で活発な研究が行われているが、報告されてきたほとんどの現象は、物質の結晶構造の大きな変化を伴っており、格子系の遅い変化に律速されるため、テラヘルツ領域の応答速度をもつ現象はほとんどない。それに対して、岡本氏の研究の独創性は、強相関系の光応答がもっぱら電子系の相互作用に支配されるがゆえに超高速であることを実証した点にある。半導体量子構造においては、光スイッチング材料としての膨大な研究の蓄積があるが、その光キャリアの緩和の高速化には限界があることが知られており、実用化には至っていない。光スイッチング材料としての強相関系は、その超高速性において実用面でもブレークスルーを生み出す可能性があり、この点での岡本氏の研究のインパクトはきわめて大きい。

 岡本氏は、1999年以降、日本物理学会の招待講演2回、シンポジウム依頼講演3回、主要国際会議での多数の招待講演を行っており、国内外で高く評価されている。また、数年前に日本物理学会の光物性領域に強相関系・超伝導体のセッションが新設されたが、これは岡本氏の研究が引き金となっている。さらに、本業績に関連する岡本氏の論文2報(Journal of the Physical Society of Japan, 75, 83707 (2006)、75, 123701 (2006))が、昨年、日本物理学会欧文誌の注目論文(Papers of Editors’ Choice)に選出されたことは、岡本氏が現在もこの分野をリードする優れた業績を挙げていることを裏付けている。
岡本氏の研究は、新規材料を発掘し、フェムト秒分光を中心とする最先端の分光法を適用して新しいエキゾチックな光機能性を見いだし、その物理的機構を解明し、新物質開発にフィードバックさせるという正統的な光物性・光機能性の研究である。これは、岡本氏が、分子科学研究所時代から培ってきた分子性固体に関する豊富な経験・知識と、東北大学科学計測研究所において習得したレーザー分光計測技術を融合し、東京大学においてそれを開花させたものであり、文字どおり岡本氏にしかできない研究である。研究内容のなかで、物質探索の部分は、多くの物質合成の専門家との共同研究によるものであるが、成果の主要部分はすべて、研究の立案から遂行まで岡本氏が主体的にリーダーシップを発揮して行ってきたものである。